基本情報
神 沙江子 1982年8月23日生まれ(41歳)
秋田県出身、宮城県仙台市在住
有限会社ピアサンジューキュー代表取締役
趣味 旅行、読書
はじめまして。神 沙江子と申します!
ご覧いただきありがとうございます。
私は、婦人服のセレクトショップの2代目経営者です。
娘だからという理由で親の会社を引き継ぐ道を選びました。
創業から数十年、時代も変わり、お店を守るだけではいけないと
進化することの重要性を思い知らされました。
後継者である私は、店舗再建を計画し、
Webマーケティングを学び、引き継いだ店舗をかつての繁盛店へとよみがえらせる。
という目標を立てました。
まずは何故webマーケティングを学ぼうと考えたのか、
ここに至るまでの私の過去をお話ししたいと思います。
幼少期~秋田で生まれ、仙台へ~
私は、秋田県秋田市で生まれました。
そして私が生まれた年に、両親はアパレルのセレクトショップを開業しました。
裕福で恵まれた家庭環境でしたが、実は私、親が選ぶ洋服は可愛いと思えず、むしろ嫌いだったんです。
「絶対に服屋にだけはならない。」
両親は夫婦で経営をしていたせいか、家にいない時間が多く喧嘩もしょっちゅう。
その姿を見て親の仕事が嫌いだったのかもしれません。
とても恵まれていましたが、寂しさも感じていた幼少期でした。
平成元年、現在の店舗である仙台店がオープン。
その数年後、10歳の時に、私は母と弟と一緒に仙台へ引っ越しました。
その後、父が管理していた秋田の店舗の業績が悪化。
父へ電話をしても、「会社が大変だから全部お母さんに言いなさい」こればかりでした。
ですが、社長である頼もしい父が苦労している様子は全く想像がつかなかったので、あまり信じていませんでした。
両親の離婚、倒産、父が行方不明に
ある日、仕事で対立することが多かった両親が、秋田店と仙台店で会社を2つに分け、離婚をすることになりました。
私としては、仲の悪い両親は夫婦でいる意味あるのかなとさえ思っていたので、離婚はすんなり受け入れました。
私は、ひとりで家計を支える母を見て
女は男性に頼って生きてはいけない、自分の家族は自分が守るべきだ
この考えを強く持つようになりました。
ある日、私はいつものように自分の部屋にいました。
母が帰宅し、1枚のFAXが届いていました。
「会社が倒産した、自己破産をする、子供も仙台も被害はない、今後居場所は知らせない」
そんなようなことが書かれていました。
父の会社は倒産し、父は自己破産することに。そしてすぐに行方不明になりました。
会社が無くなり、従業員や取引先にも大きな影響が及びました。
母は気丈に振る舞っていましたが、この時の状況は今思い出すととても苦しいものでした。
アメリカへ留学、東京で就職
自分の将来について前向きに考えることが出来なかった私に、アメリカ在住の母の友人が留学を提案してくれました。
その方のお膳立てがあり、私は合計4年半、アメリカのサンディエゴとボストンで留学生活を送ります。
話せない英語、友達づくり、知らない土地、大量の勉強、これらをひとつひとつクリアしていくことで「どこへでも行ける」感覚を持つことが出来ました。
学生終了後に私は帰国しましたが、帰国の理由は「就職」ではなく、「墓を守るため」。
私は無意識に「家」にこだわり、家業を継ぐということが意識の中にあったように思います。
帰国した私は、就職先として両親が創業時の取引先である大手メーカーに応募しました。
幼少期、「絶対に服屋にはならない!」と叫んでいた自分が嘘のよう。
無事に受かり、「やり手の店長さんがいる店舗に配属してほしい」と会社に頼み、
当時の社内1番の人気ブランドで、エリア統括店長のいる店舗に配属になりました。
販売員としての基本を叩き込まれ、大切なことをたくさん教えていただきました。今でも思い返すことが多く、当時の上司と会社には感謝しています。
そして、特に飛躍することなく数年後に私のサラリーマン人生は終わりを迎えます。
2011年、東日本大震災をきっかけに、私は仙台に帰ることにしました。
せっかく慣れてきた東京暮らしでしたが、何をやっても本気で夢中になることはなかったのです。
親の会社へ入社
私は地元仙台へ戻り、創業者の娘として母の会社に入社、
そして間もなく、先輩から言われました。
「あなたが育ってこれたのは、私達が働いてたから」
その通り。
ですが私はこの言葉を聞いた時、父の倒産直前、家でひとり悩み苦しんでいた母の姿が脳内で蘇りました。
母はその当時、夜は眠れずに真っ暗の部屋でタバコを吸い、
「運動不足だから」と壁にボールを投げたり、
「これからはこれが必要だから」とパソコンを叩き狂暴化したり、
かなり不安定でした。
家でのそんな母を見て、私は全て辛い仕事のせいだと思っていました。
「どれだけ大変だったのか、私が一番分かってる。」
仕事では戦力外のぬるま湯で育った2代目。能力のない凡人です。
経営なんて、想像がつきませんでした。
社長交代、結婚、出産
30代に入ると、自分の中である考えが確立しました。
自分には能力が無い代わりに、周りからたくさん教えてもらってきた実感がある。
「自分には何もないことを受け入れて、外の世界から教わって生きよう。」
一見、ポジティブに見えますが、実はこの考えは
「私の敵は、母。」という感情が原因です。
企業によくある、お家騒動。
母を助けるために入ったはずの会社で、母と戦っているのです。
毎日のように意見が食い違い、一体なんのために家業を継ぐのか分からなくなる。
結果を出すためには、外の世界へ情報や教えを取りに行き、それを実行していくことが、母に勝つ方法だと思っていました。
平成28年8月、親子対決を繰り返しながら、私は会社の代表になりました。
そして35歳で滑り込むように結婚。
長男を出産し、そこでこれまで感じたことのない感情に襲われました。
子供が生まれたことへの恐怖とコロナウィルス
「死ぬのが怖い」
出産してから、私は突然こんなことを思うようになります。
それまで、自分自身をあまり大事にしてこず、出来ない自分に対して自責と自己嫌悪を繰り返してきました。
そんな私が急に、命よりも大切な子供を出産したことで
「死んではいけない」と感じ始めたのです。
この命を守らねばと意気込む反面、自分が死んだらどうしよう、怖いという感情。
正体不明の恐怖に駆られ、今考えても、とても不思議な体験でした。
そして、そのタイミングで新型コロナウィルスがやってきました。
バタバタと融資を受け、オシャレが必要とされない世界でも来てくれるお客様に助けられる毎日。
必ず乗り越えると前向きに向かってはいましたが、
コロナ禍では、量と効率重視のファストファッション時代を生きた私の経験は一切役に立ちませんでした。
今まで両親が大切にしてきたのは、
お客様との信頼関係。
お店でゆっくりとコーヒーを飲む時間。
「人生」がテーマのおしゃべり。
その人生を楽しむために必要な洋服。
創業当時からのこの積み重ねが正解だったんだと思い知らされます。
子供を守れないかもしれない恐怖と、今までの経験が役に立たない新型コロナウィルス。
私には生き残る術がないと感じた半面、両親の偉大さを感じたことで
私は、これまで簡単に扱っていた両親がつくった経営理念をもう一度振り返り、
社内で一番守るべきものとして取り上げました。
確信と確かな動機
会社の経営理念は
「愛される人づくりは、愛されるお店づくり」です。
商品を通して、無形のサービス「愛、美、感動」を提供するプロフェッショナルでいようと理念には書かれています。
私は、そのお店に来てくださったお客様のお陰で育つことができました。
数十年続いてきた理由を知ることができた今、この会社を失くすわけにはいかない。
愛されるお店をつくり、愛されるスタッフをたくさん育てる会社となる。
お洋服の提案を通してお客様の人生を彩り世の中に貢献する。
関わった人、関わった取引先によい結果をもたらす。
会社を倒産させた父のリベンジを果たし、母に父のような思いをさせない。
そのために、自分は何をするのか考えました。
創業者の時代には無い、現代で必要な能力。
課題の多い店舗を代表としての立場から救うことができる能力。
そこで私が選んだのがWebマーケティングでした。
カリスマ性ゼロな私ですが、
webマーケティングを学び、引き継いだ店舗をかつての繁盛店へとよみがえらせてみせます。
これから、私の店舗再建記録をここに残そうと思います。
自分がこれまで関わってきた方々への恩返しだけでなく、
このサイトを通じて、同じ想いを持たれている方への貢献となれば幸いです。
一人でも多くの人の役に立てるよう、失敗や課題もしっかりと残していきたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。